■ 禅とパソコン2003.11.18

 パソコンを始めて四年が過ぎました。最初は文章だけを打てればいい、といったことでしたが、画像を入れると文章が読みやすいし、説得力も増すように思えて最近は画像に少々凝っています。
 さてパソコンを使えるようになると、その便利さは始めるときの思いからは想像もつかないもので、その機能には驚きました。文章の書き換えや校正の手軽さ、資料の整理収集、そうしたことに絶大の威力を発揮するからです。これこそやってみなければ解らないことで、ここの所は冷暖自知するしかありません。
 何年か前のことですが、或る老師の提唱を聞く機会がありました。その老師は七十少し前の方ですから、パソコンといったものには全く無縁の年代の方です。この老師がその中でこのようなことを言っていました。「この頃はパソコンというものがあって、若い者は盛んにこれを使っているそうだが、そんなものをいくら使いこなせても、禅が理解できるものではない。私が大学時代、禅学の先生だったY先生などは、こまめにカードを作っておられた。それは大変なご苦労だった。そういう苦労と努力があってY先生はあれだけのすばらしい論文が書けたのだ」このような内容でした。私もこの意見に異論はなく、「なるほど」と頷いたわけですが、自らパソコンを使ってみると、その事情はかなり違ってきました。
 といいますのは、禅にしてもパソコンにしても人間がそれを行い使うということです。ですから人によっては禅がパソコンに限りなく近づく場合もあれば、パソコンが限りなく禅に近づくこともある、ということです。だいいちインターネットの知識ぐらいで、禅が解るはずがないわけで、いささかの分別があれば、この点は直ちに納得できることでしょう。そうしますと先ほどの老師のお言葉は腑に落ちなくなります。つまりY教授にしたところで、膨大な資料を手作業で否応なく整理していたまでで、その当時パソコンが普及しておればY教授もそれを使っていたことは間違いないからです。
 多くの文献、資料をカードに写し取ることと、パソコンにそれを打ち込んでいくこととは全く同じ目的なのです。違うのは手作業は、はるかに手間がかかり、今度それを取り出すときも甚だ難儀だということです。この苦労と努力があったから、禅に関する論文が書けたとは思えないのです。すばらし論文が書けたのはY教授の集めた文献や資料に対する、Y教授の見識がすばらしかったからであり、その中に込められた思想を明快にしたからだと思うのです。
 もとよりパソコンのできることというのは、資料の整理収集なのです。それが禅に全く関係がないかというと、そうではないのです。なぜなら「禅」はその教えだけで現代に息づいていけないのです。禅は今の世で禅を体験した人によって今の世の人に伝えられていくものだからです。「禅坊主は掃除だけをしておれば良い」という風潮がかなりの幅を利かせてきたし、現代でもその名残があります。事実掃き清められた境内の爽やかさは説法とも、宗旨とも、生き様ともいえるわけですが、明治・大正の時代ならいざ知らず、今日掃除ばかりで一日をおくることが出来ないのも無理からぬことです。50年前よりはるかに世の中は、複雑で多忙になってきています。ですから禅を学ぶ者にとっても、資料収集などは手作業ではなくてパソコンに委ね、時間の浪費を節約して他のことに時間を使う、そうしたことが大事なのです。「掃除だけをしておれば良い」という古人の言葉にしても、これが本当なら祖師方のあの膨大な語録は一体何のために、誰のために書かれたものなのか解りません。後世を案ずるがために祖師方が親切心から書き残したものに違いないのです。ですから今日の私たちは祖師のお言葉の一句に接するためにも、語録の整理収集は欠かせないことなのです。パソコンは自ら考えることは出来ませんが、その基となる資料を限りなく提供することができます。これはすばらしいことです。しかし人間本来が自然の関わりの中で育んできた感動はありません。山に登った風情は山に登った者にしか味わうことが出来ないのです。パソコンの操作がいかに思い通りにいこうとも、いかに多くの資料を蓄えようとも、その爽快感は自然から得る爽快感とは全く異質なものなのです。ですからパソコンで自らの悩みを解決することは出来ません。 禅は人間の本来の有り様を、宇宙の流れの中で体得していくものです。ですから真実その道に向かって努力すれば、自らの苦悩を解決することが可能です。しかし「足実地を踏むその言葉通り、坐禅の実践が一大事だ」という大義名分をかざして一時の坐禅に励むわけですが、四、五年も経つと所期の意気込みは無くなって、生気のない怠惰な坐禅になることが多いようです。そうしてあげくの果てに慢心を増長させるところがあります。このように考えますと、パソコンを使う人は、その資料収集が人生の目的にはならない、ということを常に念頭に抱いておくべきです。また禅を修する人は、パソコンによって多くの資料収集を計り、それによって古人の真摯な生き方に思いを馳せ、絶えず自らを反省し、懺悔することが肝要だと思うのです。パソコンに善悪はなく、禅に真偽はありません。それに善悪をつけ真偽を判定させるのは、パソコンを使い、禅を実践するその人の思いと行いによるのです。
平成15年11月8日  




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