■ 功徳とは2003.11.26

内心謙下するこれ功
外礼を行うこれ徳

 この語は慧能大鑑禅師のお言葉です。禅師は達磨大師より六代後の祖師ですから、六祖大師とも呼ばれています。 
伝燈の祖師方はそのほとんどがそれぞれに小さな頃から神童と呼ばれていました。そうして仏教の学問を治めたのです。しかしいくら学んでも納得のいかないところに行き詰まり、禅にその解決の方法を求めました。ですから「不立文字、教外別伝」(仏教の奥義は、学問で届かない尽々微妙の教えである。だから文字では言い表せないものだ)と禅宗ではよく言いますが、その実祖師方はかなりの学問を積んでいるのです。
そうした中で六祖大師は大変異例と言えましょう。学問をする環境になかったようです。父を早くに亡くし母と二人で生活をしていました。仕事がないので、山へ行っては薪を拾い、柴にしてわずかな収入を得ていたようです。
ある時、いつものように柴を売りに町に出掛けました。家の小口にさしかかると何やら声が聞こえます。よく聞いてみるとそれは当主がお経をあげている声でした。しばらく聞いていて「応無所住而生其心」というところに到って「がらり」と悟ってしまいました。そこで六祖(まだ六祖にはなっていませんが)が当主にお経の名前を聞くと「金剛経である」と、教えてくれました。六祖大師は悟りの内容を誰かに証明して欲しいと思いましたが、なんせ山の中でしたからそのような人はいませんでした。
何年か経って、母の面倒を見て下さる人も見つかり、六祖は遙か遠くに五祖弘忍大満禅師を訪ねました。すると五祖は一言二言の会話で六祖の悟りの内容を理解し、自らの跡取りと決めたのです。全く「小説よりも奇なり」
といった話です。この後の六祖大師の生涯は更に劇的なのですが、それは割愛します。

内、心、謙下するこれ功
外、礼を行うこれ徳

 「功徳とはどういうことなんでしょうか」という質問にお答えした言葉です。つまり質問者は、お経を読んだり、僧を供養したり、寺を建てたりすることで、その見返りがあって、それが功徳なんでしょう?と、内心思っているのです。
六祖大師のお答えは日常の生活に即した実に明瞭なものでした。「その人の思い、行い、そこに功徳の原点があるんだ、いや人間としての基があるんだ。そこをないがしろにして、見せかけの善根を積んだところで何になる」と、手厳しく、一面からすれば大変優しく説かれたのです。
謙下は謙遜の意味で、自らを深く反省していくならば、自らをうち捨てていく道が自然と現れてくることを言っています。そうなると人間は礼を以て人に接していくものであるというのです。
 三十年前この語に初めて接しましたが、それ以来私は六祖大師のファンになりました。そうしてこの時思ったのです。「本を読むには須く覚者の本を読むべし」と。

 ところで昨今は様々な宗教が乱立しているようです。私は詳しく調べていませんから断言はできませんが、その多くは宗教と言えるかどうかさえ疑問に感じます。なぜならその教義が自らの組織だけを死守し、他の宗教を相容れない独善的な内容だからです。いやしくも宗教というからには、人間の根本的な精神の尊さに目覚めたところから出立しなければならないでしょう。そしてその尊さは賢愚を越え、性別を超え、国を越えたものでしょう。そうであるならば、守るべき団体などはあるはずがないのです。
 内心謙下するこれ功
外礼を行うこれ徳
この六祖大師のお言葉を、現代宗教の真贋の試金石にしてみたらどうかと、私はいつも思っています。

             平成15年11月26日


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