■ スリムに登る2006.9.27

 登山の入門書を読んでいたら「もっとスリムに登ろう」という項目があって、そこには小さなザックを背負い競歩をするような格好で山登りをする青年のカットが描かれていた。なるほど初心者は山となると心配が先行して余分なものを背負い込むものだ。日帰りなのに食料は三日分も用意し、ガイドブック、目薬、着替え、シェラフ・・・と、日常生活のすべてを山でできるぐらいに多くのものを持って行くのだ。その本の著者は「山はもとより不便なところで、その不便さをある程度は我慢しなければなりません」と結んであった。私もかなり多くのものを背負い込んでいくタイプで、相棒から「何が入っているんですか」と訊ねられるくらいなのだが、どうも軽装で山に行く気がしないのだ。「山は15`、20`の荷物を背負い込んで行くもの」という固定観念があるのかも知れない。ともあれそうしたことでこの入門書を読んだ時には少々反省させられた。

さて、三ヶ月前から山の専門雑誌を一年契約で購読した。そこにはすばらしい山の写真が所狭しと掲載されていて、その写真を見るだけでも楽しかった。新刊書の案内や登山道具についての記載も有り難い情報だった。その内に文章を読むようになった。文章については最初からそれほど期待はしていなかったが、それなりに得るところがあって面白い内容だった。徐々にそれを真面目に読み始めると、どこか違和感を感じた。それは非常に偏狭な山至上主義なところだった。ヒーローとして顔写真付きで登場する岳人は「あの山を落とし、この山を落とし、次は未踏峰の○○を目指す」といったことがその方の経歴として書かれていた。そのヒーローの文章を読んでみると、彼は山を楽しむのではなくて、「どんなことをしてでも登頂すればいい」といった感じだった。そこで思ったことは、例えどんなに難しいコースを辿って山頂に達したとしても、それは様々な要因が運良く備わっていたからに過ぎないのではないのか、ということだった。突然の気象の変化、雪崩などは誰も予測が出来ないからだ。それに尚かつ無神経と思ったのは、打ちたいだけのハーケンを壁に打ち付け、酸素ボンベは空になればうち捨てる、ましてや排泄物など素知らぬ顔で垂れ流しだ。こうした我が儘を通しているということである。そうしておいて「あの山を落とした」などど寝ぼけたことを言えるということは、山を単に商売道具に扱っているに過ぎない、ということだった。
 そこでさらに詳しく月刊誌を読んで見ると、そこに書かれていることは山を傷つけながら、山を競争しあっている修羅の世界だった。多くの岳人は初めは娑婆の合理主義、生存競争といったものから一時の解放を求めて山に登ったはずだ。ところが山にのめり込むと人間はそこにもまた娑婆を作るのだ。つまり「俺はあの山を縦走した」「俺はあの谷を厳冬期に登った」という争いの場を求めるのだ。そんなことばかりが書いてある。そのカットの写真の山は清浄無垢だが、そこに佇む人間は非常に汚れて醜いものだった。
 「泥中に泥を洗う」という箴言がある。どろんこの中でその泥を洗い流そうとしている人間の愚かさを言ったものだが、山岳誌の内容はそうした箇所が多かった。人間はどこへ行っても何という馬鹿なことを性懲りもなくするんだろう、つくづくそう思った。

さてそこで巻頭の「スリムに登ろう」という言葉だが、これはこれで非常に良い言葉だと再認識したのだ。というのは「スリム」ということは単に物質的な物を背負うということではなくて、精神的な軽さと考えると合点がいくのだ。つまり自らの内に知らず知らずの内に巣くう競争、我が儘の張り合い、・・・そうしたものをすべて捨てて裸一貫の自己を見据える、その場として山を相手とする。これが「スリム」だと思ったのだ。本来誰でもここを味わって山に惹かれてきたのだ。不景気で何かと世知辛い世の中であればこそせめて山に行くときぐらいは「スリム」を心がけたいと思うのである。


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