■ 山は無常である2003.11.28

 山は無常を感じるところのようです。落葉を踏みしめて一人奥山へ入って行く姿は一面侘びしくもあります。しかし落ち葉の柔らかさ、渓流の清楚さ、静寂な木々の佇まいを受けながら人は頂上を目指すのです。そうして人が山で感じ取るものは、自らの生の流れと自然の流れとであるようです。人は生まれ、成長し、そうして死ぬ。それと同じものを山に味わうのでしょう。死とはそこで止まってしまうものではなくて、再生の第一歩なのです。自然の中に死はありません。死とみえるものは必ず再生を含んだ一時の死なのです。大木が朽ちるその横に小さな木が芽吹いている。落ちたドングリはそのまま樫の木として成長するのです。死と同時に生を包む山に人は自らを見るのです。

「人はどこからきてどこに帰るのだろうか」この疑問は誰しもが抱くことです。しかしその解明は難しいものです。哲学にそれを求め、宗教にそれを求めてもその解決は甚だ遠いのです。つまり哲学でも宗教でもその問題にたいする回答は最終段階に属するからです。 山を愛する人も多かれ少なかれこの問題を密かに抱いています。「一生これでいいのか」という自問自答がどこかにあるのです。その解決の糸口として彼らは山を選んだのです。その選択は生き方として最上の部類に属するでしょう。多くは即興的な行楽にわが思いを押し込め、自虐的な酒飲に自己の本来の呻きを閉じこめているようです。

山は自然で説明のない正直な歩みです。春夏秋冬の移ろいを喜び、動物や植物と一緒に楽しむ楽園の場所なのです。そこに人が一歩を踏み込む時、人間本来の命と呼応する限りなく大きな命を感じるのでしょう。つまり一切は助け合い、励まし合い、愛しみあっていることを肌で味わうのです。自らの命に対して、何の説明も無しに満足できる能力を人間は持っているのです。山に足を踏み入れ自然の命に呼応するだけで、自らが新たな命となって明日に向かうことを知っているのです。

山は大きくて深くて静かです。それはそのまま人間の心でもあるのでしょう。移ろいゆくものの中に美しさがあり、悲しさががあり、はかなさがあり、嬉しさがある。そこで人の心は育まれるのです。
そうして移ろいゆくものの中に不動のものを求め、はかなさの中に永遠を願うのです。その心は大きくて深くてしかも静かです。
山に一人で入れば山は大きく、深くなります。人が自らを内省すれば心は大きく、深くなります。自らの内省の場として人は哀れにも山にむかうのです。


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