■ 2004年年頭所感2004.1.12

 新年を迎えますと「今年の抱負」ということをよく見聞きします。
みなそれぞれに立派な目標を掲げて一年を計るわけでいいことだと思います。事業家であれば景気回復を願ったり、学者であれば学業の成就を抱いたり、漁師であれば豊漁を願ったりと、その立場によって様々です。さて「年頭所感」を読む中でふと思ったことは「畢竟何なんだろう」ということでした。人間は結局のところ、何を求めているんだろう、ということです。これは一概に言えないことで、私は仕事に生き甲斐を感じている、私は趣味に精魂を費やしている、私は政治に全力をつぎ込んでいる・・・等々千人千様でしょう。登山家などは厳冬期に氷の壁を登るんです。本当に命をかけてするわけです。私の尊敬する写真家などは南極や北極まで行って写真を撮るんですね。何億というお金をつぎ込んで、厳しい環境ですから命を落とすような事は何度もあったというんです。でもそうした所に出掛けていく。人それぞれに価値観があって一律ではないんです。自らが「これだ」と思ったところに精魂を尽くしているんです。

こうした人たちを見ていますとその努力と熱意、執念とまでいえる自己に対する責任感というものがひしひしと伝わってきて思わず溜め息が出てしまいます。「あー何と私はのんびりとした毎日を過ごしていることか・・・」と。しかし負け惜しみなのかもしれないのですが、そうした人たちの努力が畢竟何の為なんだろう、と考えるのです。有名な登山家たちの本を読んでみますと、確かにその熱意、知性、判断力、といったことには敬意を表するわけですが、一つの登山をクリアすると更に危険度の高い山に挑戦するんですね。そうして結局遭難するわけです。遭難しないとしても一体何の為に過酷な事を自らに強いるのか、それが本を読んでもはっきりしないんですね。「自らを表現するためだ」とか「そこに山があるからだ」といった言葉では非常にあやふやなんですね。そんなあやふやな気持ちで命を賭けるのは勿体ないことです。          

 三ヶ月ほど前にNHKの番組をみていましたら、C・Wニコルという人が「森と共に生きる」といったことを話していました。とてもいい内容だったのでNHK講座の本を取り寄せました。それを読みますと、ニコルさんはエチオピアの山奥で暮らしたり、カナダ北極地方で海洋哺乳動物の研究をしたり、北極探検に三度も行ったりと、自然を相手の仕事をしていた人でした。この方が縁あって日本に来て、日本の自然の豊かさに惹かれて、日本に帰化するわけですが、ある時ごく親しい友人からこのように言われたというのです。「失われた魂のごとく世界を流浪するのは、もう終わりにするときだ。危ない橋を渡ったり、危険な争いに首を突っ込んでばかりいるんじゃない。もう落ち着く時だ。そして、文学と書くことに闘う時だ」と。
この言葉が転機となってニコルさんは文学者として自立する道を選んだわけです。さて私が「なるほど」と感じたのはニコルさんの友人の言葉でした。「失われた魂のごとく・・・」ここを読んだ時に登山家が何故にあの険しい氷の壁に挑むのかが解ったように思えたのです。「そうだ、自らの心の置き所が解らないからあの壁に挑むのだ。本来壁は自らの内にあるんだ。外に求めようとするから止めどなく危険な場所を選ばざるを得ないのだ」こう思ったわけです。
そうしますと、命を張って仕事をするということは尊いことではあるんですけれども、失われた魂のごとく・・・では困るわけで、そこに自覚がないと駄目だと思うのです。何を自覚するのかというと自らの本当の命を自覚するということです。それは容易なことではなくて大変な困難が待ち受けているわけです。つまり修行が必要だということです。しかしその修行は盲目的な、失われた魂のごとく、ではなくて非常にはっきりとしたものです。歴史上の多くの祖師方の生き様はそのことを証明しています。

 華厳経というお経に次のような問答があります。
質問「お釈迦様はなぜこの世にお生まれになられたのでしょうか」
答え「自覚する道があることをみんなに教え、その道を修め、その道を悟り、その道を楽しむためだ」
 分かり易く言うと、「この世に我々が生まれたのは何の為なのですか」という質問に「目覚める道があることを知り、その教えを修め、その道を悟り、そこに憩うためです」と答えています。もっと端的に言えば、「畢竟何なのか」という問いに「悟りなさい」と答えているのです。
私はこの一連の問答が常に頭を離れません。人間どんなに厳しい山に登っても、どんなに過酷な状況を克服しても、結局自らを悟らなければ浮き草のように、あっちにふらり、こっちにふらりと止めどなく彷徨うだけだし、悪いことにはその彷徨っている醜い姿を人に自慢することにもなりかねないのです。なぜなら自らの不安を覆い隠すために人は自らの行いを正当化することがあるからです。
 そこで私のささやかな責任はと言うと「目覚める道がある」という第一点を常に再認識する事だと思っています。そしてそのこと意外に私の年頭所感は無いなと感じています。


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