■ 生き甲斐2005.11.3

 人は意識的にも無意識にも生き甲斐を抱いているものです。そうした中で更に自らの人生に使命を抱いて生きている人たちもいます。つまり「人生とは何か」「人はどこから来て、どこに行くのか」ということを常に心に抱き、温め、苦悶し、そうして自らの進むべき道を見いだした人たちです。それは写真家であったり、学者であったり、音楽家であったり、漁師であったり・・・と様々ですが、そうした人たちはどこか輝いています。生き甲斐を持っていない人はいないのですが、人間としての本質的な目標を定めてそこに向かって歩む姿は神々しいものです。
 その生き方の基は十代、二十代にあるようです。その多感な時代に学んだ多くのものの中から自らに合った核を見いだし、温めるのです。それが大きく膨らんで徐々に抜き差しならないものとして育ってくるのでしょう。青春に核を見いだせなかった人は、本当の生き甲斐を自覚することなしに一生を過ごしてしまうことがままあるようです。 さて生き甲斐を見つけ、それを育てあげている人が幸福かというと、必ずしもそうではありません。「人はどこから来て、どこに行くのか」という切実な問題を抱き、その核を育むことは必ずしも実生活とは一致しないからです。あまりにも理想を追い求めるために友達との軋轢が生じたり、金銭的な感覚に疎くなる傾向があるからです。そうかといって、青春時代に人生の核を見いだせなかった人が不幸かというと、これもまたそうではありません。これらの人たちはそれ程高い理想を求めず、現実がすべてだと考える傾向が強いものですから、社会的な付き合いは上手ですし、もちろん金銭的な感覚にも精通しています。人生を深く求める人は実生活が疎かになり、人生をさほど論じない人は理想がない、という不均衡が絶えずあるようです。ともあれ人は 得失是非・善悪邪正に一喜一憂して過ごすわけです。尊い生き方を目指そうとしても日々の食事に美味い、不味いを言い、季節の移り変わりに暑い寒いと小言を吐くのです。苦楽あい半ばする毎日の繰り返しの中で、ある時人はそれを越えた普遍のもの、不動のものを求めるようになります。移ろいゆくものの中に不動のものを求め、はかなさの内に普遍を願うことは、自然な流れでしょう。水が高いところから低いところに流れるように人間の心も一喜一憂を越えた静けさをどこかで求めているのです。そしてここが核への入り口のようです。この道は選択するものではなくて、自ずから与えられることのようです。十代から二十代で人生に対する核を見いだす人が多いわけですが、しかし四十代になって急に核が見つかり、半生を大きく転換する人もまたあることは事実です。人それぞれの環境によって核を見つける時期は異なります。極端な人ですと末期まで人生を考えたことがないということもあります。
 さて、抜き差しならないものに出会い、その尊さを自覚しても、人はこの現実に生きていかなければなりません。つまり真実と現実の狭間で「人生とは何か」と更に問いかけるのです。言い換えれば現実という確かな土壌の上で理想の真実を実践するのだ、ということです。ここは非常に大切なことです。うっかりすると現実を批判し尽くして、残るは空しさだけ、ということにもなりかねないからです。ある人は理想の実現のために日本を厭いギリシャに永住しました。またある人はアラスカにその地を求めました。その人たちの行いは自らに厳しく非常に尊いことでした。しかしそれはごく限られた人たちができることなのです。日本人の多くがそのようなことをできるものではないし、また許されることでもないのです。私たちは混乱極まりなく、爛れるような疲弊し切ったこの日本の中で「人はどこから来て、どこに行くのか」と自問自答しなければならないのです。なぜならそうした日本に育まれてきたからです。「小人は山に隠れ大人は市井に隠る」という諺があります。学ぶべきところの多い箴言で、身近な所に大人(真実の人)が居たからこそ私たちは現に理想も現実も享受しているのでしょう。
 そうしますと本当の生き甲斐を求めている人は、現実をより大切にしなければならないし、「人生とはこんなもんだぜ。真実とか理想を掲げてあくせくしている者は馬鹿だぜ」といった、人生に見切りをつけたような人は、今一度素直に歴史を振り返り、その有史の底に絶えず流れている清流に、思いを馳せる謙虚さが必要だと思うのです。 



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