■ 登山と写真撮影2007.9.20

 五年ほど前薬師岳に登った時に、三十`もあるかと思える荷物を背負子にして登ってくる男性に出会った。私は下るところだったが、その荷物はカメラの道具であることが一目で分かった。「プロのカメラマンなのかも知れない」すれ違いざまにそう思った。 山でいい写真を撮ろうとすれば、カメラとそれに似合った三脚が不可欠である。更に大小種々のレンズ、それに別の機種のカメラとなると相当の量になる。こうしたものを担いで山に登ることは普通の登山者には無理な話である。写真を撮るのが目的で山に入るのなら重たい機材を持ち、長期滞在してシャッターチャンスを狙うことも出来るが、私たちの山は歩くだけで精一杯、それも三泊四日が限界ときているから、写真は出来るだけ早く撮ってしまわないといけない。つまり「歩きながら写真を撮る」そのような状態を強いられるのだ。その結果、下山してからその写真を眺めると、「もっと良いところがあったのに」そう思うこと頻りなのだ。それでも一回の山行で四本ないし五本のフィルムを使うから百五十枚から百八十枚撮影する。その中で納得いくものは四〜五枚というのが一般である。
 そもそも登山と撮影とは相容れないものだ。登山に体力が必要であるのは当然だが、撮影にも同じように体力が要る。だから厳しい山であれば撮影は山頂だけとなって当然だ。途中の景色まで撮ろうとすると、カメラをザックから取り出さなければならない。これが一々面倒だし体力を消耗する。そうすると休息した時に「ついでに写真を撮る」ということになる。それでは当然いい加減な写真になる。下山後撮影したものを並べて「今度こそは良い写真を撮ろう」と、意気込んでいたが、最近はそれを諦めている。 なぜなら所詮無理な話であることが分かったからである。山を歩いていて「良い風景だな」と思ってザックからカメラを取り出し、いざシャッターを切る段になると、光景がもう変わっているのだ。光やガスが刻々と変化するからだ。だから登山中の写真は、「思い」を込めた写真は撮れない。もう眼前の風景に任せるしかないのだ。当然「下手な鉄砲も数撃うちゃ当たる」式になる。
 このようなことで、登山での写真は所詮付録にすぎないわけだが、山の風景は所々人の心を打つ。そうした感動、心象を留めようとするのが、歌であり俳諧であり或いは随筆なのだろう。だから自らが作った歌が例え下手であっても、その歌を読めばその時の情景が彷彿としてくるものだ。それだけの効果があれば歌や俳諧の役目は十分に果たしたと言い得る。
 登山中に撮る写真も同様に、その時の感激を自らの記憶に残すためであって、人に感動を与えようとしているわけではない。その写真を見てその時の山行が一コマ一コマ思い出されればいいわけである。だから洗練された技術や、高度の写真器材は必要ないのだ。下手な写真で良いわけだし「この写真を撮る三十秒前がすばらしい光景だったんだ」と振り返ることができるならば十分なのである。その点プロの写真はそういう訳にいかない。つまり人を感激させるために撮らなければならないからだ。そこに技術、機材がどうしても必要となる。プロは風景を楽しんではいけない。山を商品として冷静に見つめる術が要るのである。
 こうしたことで、私は「いい写真を撮る」ことを断念して山行を楽しんでいるが、時として思いがけない絶景に巡り会えることがある。その時にいつも思い出すのが次の言葉なのである。「釣りの極意は一場所二餌」どのような技術を駆使しようが、どのようなカメラを使おうが、その場に出会った者にしか味わえない山の一期一会がある。その時にはデジカメで撮ろうが使い捨てカメラで撮ろうがいい写真に違いないのだ。

 平成十九年九月二十日

 



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