■ 私と般若心経 第2話2014.12.21

 般若

 般若心経には「無」という字が何度も出てきます。それは私たちが目にするもの、意識するものが本当にあるのですか?。深く考えてみて下さい。という否定の言葉として使われています。つまり「無=無い」ということです。
「無=無い」ということを安易に解釈し、佛教の教えはつまるところ「無に帰する」のだと説く本を読んだことがあります。しかし「無に帰する」と説くその内容は極めて観念的でした。「無に帰する=何もない」との結論なのです。何もないとは一体どうした事なのでしょうか。
私たちは生まれてこのかた「何もない」を体験したこともなければ想像することも実は出来ないのです。熟睡している時は何もありません、とはいっても心臓は鼓動を繰り返し、呼吸をしているのです。般若心経の後半に「真実不虚」の語があります。「真実は虚しからず」です。あやふやな、喜びのない、不確かな教えが2500年に亘って説かれ、語り継がれてくるはずがないのです。では無とはどのように受け止めるのが佛教徒にとって大切なのでしょうか。
実は「無=一切を受け入れる」これが現実に即し、しかも未来永劫に通じる真実なのでしょう。喜怒哀楽・悩み・気づき・不誠実・誠実・・・そうした全部を受け入れる。その全部に育てられている今である。いつでも、どこでも、誰にでもこのように受け止めることが出来る人、その人こそが真実不虚の人であり、人生の開拓者であり、人生を創造した人でありましょう。その喜びの事実が「般若」なのです。金子みすゞさんの下記の詩はそうしたことを歌っていると私は受け止めています。

わたしと小鳥とすずと 金子みすゞ

わたしが両手をひろげても/お空はちっともとべないが/ とべる小鳥はわたしのように/地べたをはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても/きれいな音はでないけど/あの鳴るすずはわたしのように/たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし/みんなちがって、みんないい。





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